中神輝一郎失踪事件
日本競馬界からプッツリと姿を消した騎手、地球のウラ側のブラジルでスタージョッキーとして大活躍していた、なんてことが話題になったのは1975年の新春のことである。
かつてハマテッソを駆って目黒記念、京王杯AHで快勝、若手の有望株といわれた中神輝一郎騎手がその人。同期には郷原洋行、中島啓之たちの名前が見える。
期待の中神騎手は、1967年にブラジルの招待レースに招かれて出走したのだが結果は惨敗。その後、関係者の前からバッタリと姿を消してしまったのである。
「人気ジョッキー謎の失踪」というわけだ。当然、仲のよかった同僚たちの証言が週刊誌上などに集められた。
「あいつにはもともと冒険心みたいなものがあり、青春の夢をかけたんだと思う。」
「親分肌だったので他人の借金を背負って追われていたのでは」
「厩舎の調教師と折り合いが悪かったのでは・・・」
出奔前に飲んだという同僚には「条件さえ折り合えば帰ってこないかもしれない」と漏らしていたという。
実は中神騎手は、帰りの空港で招待された一行の前から姿を消すと、持ち前の強心臓を発揮して大統領や州知事に直訴。ブラジル競馬界への道を自分で切り拓いたのである。その翌年デビューすると、常にリーディングの5位以内、しかも連対率6割というみごとな成績。そして何よりもその騎乗スタイルが人気を呼んだ。
当時のブラジルの競馬は、短距離レースが中心で、ヨーイドンで駆け出してどの馬がバテずに残るかといったもの。展開というものはないに等しい。中神の戦法は、前半抑えて、後半に一気にゴボウ抜きするというもの。これがサンパウロっ子に大ウケ!当時、ブラジル日系社会人界でも一世を風靡していた裕ちゃんこと石原裕次郎バリの人気を博し、ブラジル競馬界の裕ちゃんとまで呼ばれたのである。
その後、中神騎手は、日本とブラジルの競馬界の掛け橋となって両国競馬界の発展のために寄与した。
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